1949年1月12日―小説家、米文学翻訳家、エッセイスト。京都府京都市に生まれ、兵庫県西宮市・芦屋市に育つ。
早稲田大学第一文学部演劇科卒、ジャズ喫茶の経営を経て、1979年『風の歌を聴け』で群像新人文学賞を受賞しデビュー。
1987年発表の『ノルウェイの森』は上下430万部を売るベストセラーとなり、これをきっかけに村上春樹ブームが起きる。日本国外でも人気が高く、柴田元幸は現代アメリカでも大きな影響力をもつ作家の一人に挙げている。
2006年、特定の国民性に捉われない世界文学へ貢献した作家に贈られるフランツ・カフカ賞を受賞し、以後ノーベル文学賞の有力候補と見なされている。
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15歳の僕はカラスと呼ばれる少年の声と共に家を出る。『世界一タフな15歳』になるために。 僕には予言がされた運命があった。出奔はその呪われた予言から身を守るためでもあった。 旅を続ける中、ある日僕は記憶が無くなる。覚醒した時にはまるで人を殺めたかのように血まみれになっていた。 その頃、中野区では猫探しの名人ナカタさんが1匹の猫探しの依頼を受けており、ジョニー・ウォーカーという謎の男と対峙していた。 僕の物語を軸に、併行して進むナカタさんと呼ばれる老人のエピソードがクロスしながら、次第に全てのエピソードが1つの流れへと符号していく。 僕の予言の断片が実際に符号されていくように。 多分15歳という頃合は、(忘れてしまってはいるけれど)世間と自分の折り合いをつけるために苦心惨憺した結果の大人より、剥き出しで、鋭利で、真面目な感性を持っている。純粋であるということは、残酷で苦しい。知らないということは痛みでもある。 その純粋さを「欠損」に置き換えたとも言えるテーマ。カフカ少年以外の登場人物は大人であるけれど、何れもある地点から損なわれたものを渇望して生きている。 精神的虐待を実父から受けつづけた孤独な少年。彼にとって否定は痛みからの逃走であり、自ら課した不自由さは欠損を埋める手段でもあった。 しかし、世間には損なわれたものを求め、あるいは損なわれている事実を受容しながら生きている人びとがいた。そうした大人たちとの交流を通じカフカ少年は呪いの予言をまるで先制攻撃をしかけるように自ら顕在化させていく。 その顕在化へ道を作っているのがナカタさんである。 エピソード自体はクロスしてはいるがナカタさんサイドはカフカ少年と交わることはない。このナカタさんの存在は際立って美しく、まるで天使か何かのような気さえする。 古典的な生霊という存在やあるいは幽体離脱とも夢遊病とも取れる現象を絡ませながら、魂の命題にふと触れる瞬間もあるが、中心的な位置を占めるのは「想像力」という言葉に置換できるかも知れない。 人を人たらしめる想像力というもの。だがその想像力は想像した時点で自らの責任を問われるものでもあり、良きにつけ悪しきにつけ、自分の元へ還って来る。 他人を損なうのも、生かすのも、また自分を損なうのも生かすのも、思いの力であるということだ。 『世界はメタファーに満ちている』、そう、そこに在る事象は自分の意識と器官によってもたらされる。同じ事象の中に在ってもあなたと私では見えているものが、感じ取るものが違うように。 『悲劇は人間の美徳から生まれてくるものである、…』大島さんの言葉は人間のあるべき姿が十字架を背負うものに似ていると示唆さえしていると穿れば思える。 タブーの連発で綴られているように思えるこの物語、実際はヒューマンで実直な物語であると思う。 最近の幻想文学の傾向が内的世界に向けられることが多いような気がするが、そう考えると「海辺のカフカ」に限らず、村上春樹の作品は先駆けであったかも知れない。 「世界の終り~」のようなプロットと「ノルウェイの森」のような切なさと、村上ワールドに欠かせない「欠損」を併せ持った佳作。 「海辺のカフカ」出版後読者とのメールでのやりとりが「少年カフカ」という本となっている。 2007.01.26読了
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