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ペール・ラーゲルクヴィスト Pär Lagerkvist

Par Fabian Lagerkvist ,1891年5月23日 - 1974年7月11日。
スウェーデン・スモーランド地方のベクショー出身。作家・詩人・劇作家・エッセイスト。1951年度ノーベル文学賞受賞者。
人間の善悪という普遍的なテーマで作品を執筆し続けた。幼少期から受けた伝統的なキリスト教教育の影響から、バラバやさまよえるユダヤ人という人物像を通して創作をした。最も広く知られる作品は「バラバ」(1950年)で、イエス・キリストの身代わりに釈放された犯罪者バラバの数奇な運命を描いた傑作。

バラバ | 巫女 |

 バラバ おすすめ

Barabbas (1950)


絶版

Barabbas (Vintage International)
storyバラバは赦免された…。
その日過越祭で死刑囚の中から一人を釈放するのが慣例となっていた。
民衆の要求に極悪人のバラバではなく、どう見ても無罪である痩せた男が代わりに処刑されることになった。

釈放されたバラバは男のことが頭から離れなくなる。
「バラバを放免し、わたしを十字架につけよ」 自分の命を犠牲にし、強制されもしない苦しみを引き受け、磔刑に処される男ことを考えただけで胸糞が悪くなりそうだと呟きながらも痩せた男とりつかれ、十字架を曳きずる彼の後をつけ、磔刑を見つめる。
男は体力がなさそうなのに、長いこと苦しんだ。すると突然闇が訪れ、暗黒の中で痩せた男は絶叫した。
「神よ、わが神よ、なぜ御身は私をお棄てになったか」

バラバは塒であった山に帰らなかった。磔になった男の素性が救世主であるという噂をいたるところで聞き、男が説いた教えを知ろうと町をうろつき、復活を待った。
しかしバラバには自分の行動を説明できる言葉も感情もなかった。


review「バラバ」という人物は新約聖書の『ヨハネによる福音書』の「死刑の判決を受ける場面」にその名前が登場する。
親を殺し盗賊であった彼は愛だの慈悲だの、ましてや神や信仰とは無縁の世界で生きてきたであろう。
不思議と疑問に導かれるまま、盲信的とも言えるほど、神を崇められる集団やサハクに接近して、信仰の凄まじさを見せつけられて、時々感化されたりもするが、己が感情の意味するところの言葉や生きる価値や善悪の天秤を持ち得なかった。
兎唇女の遺体を死産した子供と共に葬った時に見せた感情、サハクが磔で死んだ時の自分の涙、その理由すら思いつかなかった。
バラバは暗闇の中にいたとも言える。

キリスト教徒迫害の犠牲になり、最後には磔刑に処されてしまうが、息絶える直前に呟く 『―お前さんに委せるよ、俺の魂を』。
それは誰に向けられて言った言葉なのか。
他者を殺め、友を裏切り、無論それは信仰と呼べるものではなかっただろうけれど、あの痩せた男が蒔いた種を教義や力や数によってではなく、バラバ自身のやり方でバラバの暗闇の中で発芽させた思いが存在したように思う。
死を前にしたもうひとつの暗闇の中で初めて従順に生を感じることができたのかも知れない。
2006.05.07読了
  • 尾崎 義 訳
  • 岩波書店
  • 発行:1979
  • ISBN:
  • 文庫 / 185p

 巫女 おすすめ

Sibyllan (1956)

巫女

Sibyl
storyデルフォイを臨む丘の上のあばら家に、一人の老婆が白痴の息子と暮らしていた。
老婆はかつて偉大な力を持つかんなぎとして神殿に仕えていたが、神を裏切ったことからデルフォイの人々に石もて、その地を追われた。

もう何年も人が訪れることなどのなかった老婆のもとへ男がやってくる。
男は、十字架を曳きづり処刑場へ向う罪人に、家の壁にもたれかけて休むのを拒んだために、男は罪人に呪われ<不死>の身になったと言う。
男は己の運命を知りたかった。託宣をきくためデルフォイにも行くが誰一人応えられずこの地を訪れる。

『神を見ることはうれしいことではない』と、老婆もまた男とは別の神に呪われ、翻弄された半生を語り始める。

reviewデルフォイの巫女に選ばれた貧しい農家の少女が暗い岩室の中で憑代となり、神官や民衆に求められるまま託宣をし、純粋に神に仕えようとするが、神殿を取り巻くものは全て欲深く、あさましい。民衆もまた神殿の巡礼者の金によって生業を営む観光地のよう。
孤独な巫女は里帰り中に出会った男と恋に落ち、妊娠する。神の報復が始まる。
妊娠したことが発覚した巫女は、怒り狂った民衆に包囲される。命からがら逃げた彼女は、山に潜みながら臨月を迎える。
次第に彼女は、腹の子は何者なのかと疑問を抱く。
産み落とし子は…薄ら笑いをするばかりの白痴の息子。

老婆の独白は、神を求め、神を身に宿し、神に棄てられた人生。
けれど、そのかつての偉大な巫女はこういう。『人が何を考え、何をしようが、何を信じようが信じまいが、人の運命はいつも神と結びついておることだろうよ』

一見、「神とは」「信仰とは」という命題が潜んでいるように感じられもするが、人間の中、あるいは何ものかへ求めようと欲する神性について問いかけられている気がする。

作者は篤い信仰心を持っているが、十字架を背負う神の子は人を呪わせ、信仰心の無い神官が欺瞞に満ちた神事を執り行う。教義は人の行動や思考規範にはなるが、神の名の下に行われた多くの不幸は神の賽ではなく、神を理由とする人の欲望によるものだと語っているように思われる。

絶対神を持たない我々のような文化の人間にはこれほど人間と神の矛盾を感じずに生きてはいけるけれど、かつては日本の歴史の中にも担がれた神の存在と、その信仰を強制された時代があったと、思う。

ラーゲルクヴィストの信仰とは神殿の下僕に象徴される「無欲な奉仕」なのであろう。
2006.05.15読了
  • 山下 泰文訳
  • 岩波書店
  • 発行: 2002/12/13
  • ISBN :4-00-327572-1
  • 文庫 / 235p